
川村記念美術館に訪問して感動した人間の表現力
エッセイ
千葉県佐倉市の庭園と美術館が併設されている「DIC川村記念美術館 」が2025年3月をもって休館するので、本日3月18日に訪問しました。
本期間の展示は、休館を前にして川村記念美術館の展示の歴史を振り返る「DIC川村記念美術館 1990–2025 作品、建築、自然」と銘打ったものになります。
そのため様々な画家、作家による、バラエティ豊かで、作風に共通性のない種々雑多な展示作品を鑑賞することができます。
川村記念美術館へ向かう道中で
川村記念美術館へ向かうべく下道を車で運転していると、スマホを操作しながら車を運転する、いわゆる「ながら運転」を目撃しました。
その光景を見ると、人間がスマホに行動を支配されている滑稽さ、加害者になり得るかもしれない想像力の欠如を感じずにはいられなかったです。
人間の不完全さ故の表現力
昨今、仕事や私生活で利用する機会が多くなった生成AIの存在が、作品を鑑賞する際の意識に少なからず影響を受けている人が多いのではないでしょうか。
大規模言語モデルのChatGPTに代表されるように、例え回答に誤りがあったとしても、誤字脱字のない、洗練されて精密な文体は「ヒューマンエラー」「偶然性」「不完全」という存在を忘れさせます。
その生成AIが作り出すアウトプットと、川村記念美術館に展示された種々雑多な作品とを比較すると、後者の表現力の豊かさに気付きます。
つまり、自由です。
作品の善し悪しを測れるほど、美術に関して精通していない身からすると、ただ単にその当時の想いを愚直に何時間、何日間もかけて表現して完成させた、その精神に美しさを感じます。
「表現するだけで尊い」
そんな考えに及んだのは、スマホなどで娯楽に興じる消費者としての時間を過ごすのではなく、作品を表現することで生産者、表現者であり続けたことと、生成AIでは作り出せない世界が存在していたからで。
今後は生成AIが社会に蔓延るほどに、美術作品が際立つ構造になるのかもしれないと感じました。